大分市鶴崎地区を中心に活動している市民吹奏楽団

鶴吹の軌跡

※『鶴吹の軌跡』は、3代目団長(現職)の執筆により、平成16年1月~平成17年12月発行の広報紙『月刊つるすい』に掲載されました。

1.誕生!!

 平成元年4月、私は鶴崎中学校吹奏楽部OB会第3代会長に就任した。歴代会長は部長職を経験した先輩方が就任していたが、私は未経験者だ。なぜ私が会長になったかと言うと、部長であった同級生のS山が総会に遅刻し、「いない人を会長にする訳にはいかない」という先輩の一言でその場にいた私に白羽の矢が………。 画して、私たちの代のOB会がスタートしたのである。そもそもOB会は「OBが年1回集まる場を作る」というのが唯一の活動であった。 しかし、私たちの代の使命はもっと大きなものがあった。就任と同時に初代会長から「OB会バンドをつくれ!」との指令を受けたのである。 このとき私は安請け合いしてしまったのである。「楽団を作りましょう!」と。

2.誕生Ⅱ

 私以下OB会役員は6名。月1回程度集まっては「どうすれば楽団を作れるのか?」を話し合った。このときはまだ「人が集まれば楽団は成り立つのだ!」という安易な気持ちでいた。当時のOB会員は約120名。その半分でも演奏に参加すれば60名の楽団である。「こんな簡単なことはない」と高をくくっていた。 名称も"鶴崎中学校OB吹奏楽団"と決め、楽団を立ち上げる旨を私たちの中学時代の顧問で恩師であるH先生に伝えにいった。「概ね意向に賛同してくれるだろう」と思っていたが思わぬ言葉が出たのである。「楽団を作るのは無理じゃないの?」と。 一瞬耳を疑った。H先生は「すぐに集まらなくなる」と言うのである。納得できないながらも、H先生にだけは逆らうことのできない私は思い悩んでいた。

3.誕生Ⅲ

 すると、H先生は「本気で立ち上げる気があるのなら"市民バンド"を作ったら?」と言うのである。"OBバンド"と"市民バンド"の違いがイマイチ分からなかった私は、それでもH先生からのOKサインが出たという嬉しさで、「がんばります!」と答えたのである。 早速、OB会役員に先生とのやり取りを報告した。皆も市民バンドがどういうものであるのかは理解していないようだったが、「OBも市民やけん、同じことや!」という短絡的な解釈で収まったのである。 しかし、ここで名称の問題が出てきた。実質のOBバンドとはいえ、さすがに"鶴崎中学校OB吹奏楽団"とつける訳にはいかない。協議の上、問題部分である「中学校OB」を外して"鶴崎吹奏楽団"と決定した。平成元年10月のことである。

4.始動

平成2年4月の日曜日、鶴崎公民館に約15名が集まった。初練習である。名称が決定してから半年、準備を重ね団員も25名集まった。正直25名という人数には不満があったが、「活動をしていくうちに増えるだろう」と思いながら初練習を迎えたのである。 初代楽長のS藤があいさつをし、私が「どうぞ練習を始めてください!」と高らかに呼びかけた。と同時に各楽器の音が一斉に鳴り出した。まさに鶴崎吹奏楽団のスタートである。私は感無量に浸っていた。 次の瞬間、同級生の女の子から声を掛けられた。「何か楽譜はないの?」と。

5.始動Ⅱ

 「楽譜は?」と言われ「はっ」とした。演奏する場もなければ、練習する楽譜も用意していないのである。5分も経つと段々音が鳴り止んできた。皆楽譜がないと分かると、高校の部活生は各学校の楽譜を練習し始め、それ以外の人はおしゃべりをし始めた。これは困ったなぁ…。高校生の私たちには楽譜を調達するお金もなければ、手段もないのである。数名で話した結果、「楽譜は学校の部活から借りよう」ということになった。そうするうちに1時間ほどが経ち、帰り支度を始める人が出てきたので練習を終了することにした。「次回の練習日程は連絡網で回します」と伝え、先が見えないまま1回目の練習が終了したのである。

6.迷走

 その後、中学校から楽譜を借り、不定期ながらも活動(練習)を続けた。しかし、目標もなければ、本番もなく、日に日に練習への参加者が減ってきた。1年も経つ頃には5~6人しか来なくなった。 そんなある日、楽長のS藤がいつものように鶴崎公民館に練習会場を予約しに行くと、「音が出て近隣住民から苦情がくるかもしれないので使わないでください」と言われたのである。すぐにS藤から連絡があり、数名で集まった。活動もまばらで、人数も集まらない。おまけに練習場所まで失った。私は「体制の立て直しの意味でしばらく活動を止めないか?」と提案した。すると、次期楽長に決まっていたS山が「別保にも公民館があるからそこに聞いてみてダメだったら活動停止にしよう」と提案してきたのである。

7.新天地

 数日後、S山から連絡が入った。「別保公民館、使って良いってよ!」と言うのである。聞くと「若い人に公民館を利用してもらえたらうれしい」と言ってくれたそうだ。早速2人で公民館長さんの自宅にお礼に伺った。 後日、役員で集まり、楽団の立て直しの会議をした。とりあえず練習場所は確保できた。後はどういう風に運営していくか。そこで、不定期だった練習を週1回に定期化する案が出たのである。この案は満場一致で決定した。今までは日曜日の昼間に練習をしていたが、学校の部活などと時間がかぶっている人もおり「夜が良い」ということになった。そして「休日前の夜ならきつくないだろう」ということで"毎週土曜日の夜"(当時は土曜日にも学校の授業が行われていた時代)が定期練習日と決まったのである。

8.再出発

 その年、私は進学のため大分を離れた。第2代楽長になったS山も大学生になり、大学の吹奏楽部と並行して活動していた。活動と言っても、練習に来る人は少なく、2~3人という日も多かった。ある日、練習に行くと一人だったため座布団を敷いて横になったS山がうっかり寝いってしまい、はっとして起きてみたが、やはり誰も来ていなくてがっかりして帰った日もあったという。 そんな低迷な時期を過ごし、2年経って帰郷した私が第3代団長に就任した。(この時から"団長"と呼ぶようになった)とりあえず土台はS山が守ってくれた。後はどのように耕そうかと考えた。当時、団員数は名簿上では50人を越えていた。しかし、練習に来る人数は3~5人くらい。このギャップを埋めようと考えた。S山と話し、とりあえず幽霊団員(名前だけの団員)の整理をすることにした。そこで、年度末の3月に総会を開催し、音沙汰のなかった団員を全員退団とした。すると団員が20人を切ってしまった。

9.再出発Ⅱ

 正直、あまりの減り方に少々焦りを感じたが、現実を受け入れるしかなく再スタートを切った。当時の演奏活動と言えば11月の"別保校区ふるさとまつり"だけ。普段練習に参加する人数は相変わらず10人に満たないくらいだが、本番の日は15人くらいになった。しかし、本番が終わると元の少人数に戻ってしまった。 「やはり演奏する機会・場が必要だな」と思っていた翌年の4月、一般吹奏楽連盟よりコンクールへの出場依頼がきた。

10.機会

 その年は一般の部だけ別会場で開催する都合上、出場団体数を確保しなくてはならないらしく、声が掛かったのだ。コンクールに出たい訳ではなかったが、演奏する場は欲しい。しかし、さすがに15人くらいで出場するのは………。 そう考えあぐねていた時、鶴崎工業高校の生徒である団員Y(現H)から、「鶴工の吹奏楽部と一緒に出場しては?」と言われたのである。「高校生と一緒に出場するなんて現実的に難しいだろう」と思いつつも、一応、団員Yに顧問の先生に提案させてみると、二つ返事でOKが出た。鶴工も当時部員が15名くらいで、コンクール出場はあきらめていたところだったらしい。一般の部での出場も快諾してもらい、早速合同練習が始まった。

11.真昼へ

 数回の合同練習を経て「臼杵市民会館」で行われた吹奏楽コンクールに出場した。結果は銅賞だったが、鶴吹として初めての大きな舞台での演奏にとても満足した。高校生とも仲良くなり、部活に顔を出したり、鶴吹の本番に賛助で出てもらうなどの交流もできるようになった。団員も、練習への参加人数は変わらないが、参加する顔触れは増えてきた。しかし予算的な関係で(この年は結構お金を使った)、毎年コンクールに出場するのは難しい。そこで私の頭の中に出てきたのが"定期演奏会"の開催であった。

12.はじまりのわけ

 定期演奏会の開催については、「本番の確保」ともう一つ理由があった。それは親から言われた「毎週練習に行ってるけど聴く機会がないなぁ」の一言である。当時高校生の団員が殆どだったので「家族に練習の成果を聴いてもらえるチャンス」と、「公民館の近隣の皆さんに日頃の騒音(?)のお詫び」にもなると思い、早速他の役員に提案した。しかし、役員の意見は賛否両論だったのである。

13.突破口

 「普段の状況(練習への参加率)を考えれば演奏会なんてまだ時期尚早だ」と意見が出たのである。「もうちょっと環境が整ってからでも良いのでは?」とも言われたが、「いつ整うか分からない環境の変化を待つより環境を変えてしまいたい!」という気持ちのほうが強く、賛同していた数名の役員と共に多数決で開催を押し切った。平成7年のことである。

14.日取り

 早速演奏会に向けての準備が始まった。まず開催時期である。この時、本番がある時期は11月の"ふるさとまつり"のみ。その後から練習に入り、翌年の"ふるさとまつり"と時期が重ならないように考えると「夏の開催が良いのでは?」との意見が出、「高校生は夏休み中が良いだろう」ということで"8月最終日曜日"に決定した。

15."真昼"命名

 日程以外にも色々決めなければいけないことがある。まず選曲をし、大体の時間を計算すると1時間程度になった。短い気もしたが現状を考えれば仕方ないかと思った。 次に演奏会の名前。"第1回定期演奏会"で良いのではと思ったが、「硬すぎる!」との意見が出、役員A(現O)が提案した"真昼の音楽会"に決定した。

16.広報活動

 演奏会の名前と曲目が決まれば後は広報活動である。ワープロで簡単なポスターを作り、銀行やお店の何件かに貼らせてもらった。その他の方法を模索していると公民館長より「別保校区の各地区の区長さんの家に持って行ったら回覧板で廻してもらえるよ」との提案をいただき、S山と別保校区中の区長さんの家を廻った。どこの区長さんも快く対応してくれ、演奏会に向けて俄然やる気が沸いてきた。

17."真昼"の朝が来た♪

 平成8年8月25日(日)、約半年間じっくり練習を重ね、いよいよ"真昼の音楽会"本番の日を迎えた。出演者は指揮のS山を含め26名。創設以来最大の出演者数だ。 10時に集合し、まず会場設営をすることにした。ある団員から客席数をどのくらいにするのか聞かれた。ざっと見ても100席は余裕で設けられるが、あまりガラガラでも寂しいので「演奏者数×2」という何の根拠もない計算で50席用意した。

18.真昼直前!!

 その後、開演の2時まで1階の会議室で待機していると受付係の子が慌てて入ってきた。「客席が足りません!」と。2階に上がってみると50の席は埋まり、20~30人のお客さんが立っているではないか。慌てて男性団員数名で椅子を出した。約30席を追加しやっと落ち着いた。その瞬間、一気に緊張してきた。「こんなにたくさんのお客さんの前で演奏できるのだろうか?」と。

19.無我夢中の演奏、そして…

 やがて開演の時間を迎え初めての音楽会がスタートした。私は司会も兼ねていたので本番中は結構忙しく、また、あまりの緊張で演奏はほとんど記憶に残っていないが、拍手喝采のうちに無事終了した…と思う。出演者も皆満足げな表情だった。 片づけ後、近所の居酒屋「八兵衛」で打ち上げをした。15名程度の参加者であったが、皆興奮が冷めてなかったのであろう。異常な盛り上がりだった。かくいう私も途中で記憶がなくなるくらい飲んだ。(飲まされた) その時ふと思った。「偶然奏者が25名集まり、偶然天気がよく、偶然お客さんが来場し、偶然途中で止まらず演奏できた。この偶然が重なり今日を迎えることができた。もう2度とできないのではないか」と。

20.シーズンオフと思いきや…

 翌週の練習でまた現実に戻った。あいかわらず練習に参加するのは5~6名。しかし、今まであまり姿を見なかった団員も来るようになった。少しずつ意識が変わってきたのかなと思っていると、南鶴崎の"メディトピアこが"という老人保健施設から演奏依頼が舞い込んできた。担当の方が"真昼"に来てくれていたようで「ぜひ来てください」と言うのだ。最初は信じられなかったが二つ返事で依頼を受け、5ヵ月後の2月に行くことになった。 それと時期を同じくして、団員の紹介で"阪神淡路大震災チャリティーコンサート"の出演依頼も来た。コンパルホールでの演奏ということで大丈夫だろうかという気持ち(公民館の集会室より大きな場所での演奏経験がなかったから)もあったが、ありがたく依頼を受けた。 これらが現在年間6~7回を数える訪問(依頼)演奏の始まりである。

21.出会い

 鶴吹にとって外すことのできない大きな出来事の一つに、現在の常任指揮者であるK先生との出会いがある。"真昼の音楽会3"での指揮者を探していたところ、S山の高校の大先輩に知り合いがいるということで勤務先の中学校に2人で会いに行った。 訪れたのは音楽室ではなくテニスコート。出てきたのは日焼けで真っ黒な人。「本当にこの人が指揮者なんだろうか?」と不安にかられた第一印象だった。 最初は"真昼3"の指揮をお願いしただけであったが、「ついでに"ふるさとまつり"お願いします」「3月までお願いできませんか?」「できれば次の"真昼"も・・・」等、無理なお願いをし続け数年。とうとう悲願だった常任指揮者にまで就いていただいた。今日、楽団がこのような形であり続けられるのにはK先生の存在は外せない。K先生の音楽への情熱、楽団活動への理解もさることながら、K先生のご家族のご理解・ご協力も必要不可欠だったことは言うまでもない。

22.エピローグ…鶴吹その後

 その後、"真昼の音楽会"も回を重ねるごとにお客さんも増え、それに伴い依頼演奏も増えてきた。さすがに全ての依頼を引き受けることはできなくなり、吹奏楽部のない小・中学校や福祉施設への訪問に限られてきた。今、一番私が辛いのは、断らなければならない依頼が増えてきたことだ。 そんな中、今、一番私が嬉しいのは「練習に参加する団員が増えた」ということだ。団長になった時の「参加率を増やしたい」という目標が段々達成できつつある。 そして今の目標は、「特別なことではない楽団活動」である。日常生活の一部として楽団の活動に長期的に参加してもらうことが今の最大の目標である。「自分」「団員」「お客さん」の3位が共通して「無理せず楽しめる」、そんな楽団を皆で作っていきたい。

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